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2016.12.07
【SUPER GT 2016 総集編】GT300クラス第3回「チャンピオンVivaC 86 MCの軌跡」

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GT300クラスの2016年シーズンを2回に渡って振り返ってきたが、今回はチャンピオンを獲得したNo.25 VivaC 86 MC、土屋武士/松井孝允の1年を振り返ってみたい。シーズン前半はマザーシャシー(MC)が不利と言われる富士スピードウェイ(第2戦)で予選2位を獲得するなど速さを見せるが、なかなか勝利に結び付かなかった。また、MCが得意とするオートポリス戦が中止になり、苦手なツインリンクもてぎでの代替戦となったことも厳しい条件であったはず。彼らはいかにして、今シーズンを戦ってきたのだろうか?

 

 

■マシンの長所を最大限に活用し、苦手の富士を克服

 

 

 岡山国際サーキットで行われた開幕戦。No.25 VivaC 86 MCを駆る土屋武士と松井孝允は、ポールポジションを獲得したが、決勝では序盤はトップを走るも最終的には6位に甘んじた。「いや、ベストリザルトですよ」と武士は言う。「JAF-GT300車両の中ではぶっちぎりだし、もうちょっとうまくできる方法もあるんですけど、スピード勝負に持っていったクルマのセットという意味では、課題も見えましたから。まぁ、ノーミスで、自分たちのやり残したことがない上での6位なので、これからいろいろチャレンジしていきます」。 本当は悔しかったのかもしれない。しかし、このレースで彼らの確固たる方向性が見えたのも間違いない。
 武士が名門と言われる父・春雄の「つちやエンジニアリング」を復活させたのは2年前。そしてMCを選択し、松井をパートナーに起用した参戦1年目。1勝をあげたものの、ドライバーズランキングでは10位。今年のオフは車両の信頼性を向上すべく、力を注いだ。実際にトラブルでリタイアしたのは、鈴鹿サーキットの第6戦だけで、他の7戦はすべて完走している。
 その信頼性があって、レースでの様々なトライが可能となった。開幕戦岡山の予選では、松井の失敗をデータとし、セットをガラリと変えた結果がリザルトにつながった。また、そのことは松井のフィードバック、つまりマシンの分析力がより高まったということでもある。マシンの向上だけでなく、松井の能力向上も今季のプラスとなったのは明かである。
 

 

 だからこそ、苦戦もやむなしと思われた第2戦の富士スピードウェイで予選2位、決勝3位というリザルトにつながった。MCの強みはコーナリングスピードであり、逆にストレートスピードはパワーに勝るFIA GT3勢に分がある。それは定説だ。 「本当はポールを狙っていました。でもタイヤのパフォーマンスを使い切れたので、2番手という結果でも満足です」。武士はその定説にとらわれていなかったのだ。もちろん、最高速だけなら下から数えた方が早かった。注目なのはセクタータイムだ。セクター2が最速で、ポールを奪ったNo.55 ARTA BMW M6 GT3よりコンマ3秒も速かった。富士のセクター2は、コカ・コーラコーナーから始まり、ダンロップコーナー手前までの高速コーナーが連続する区間。そう、短所を補うのではなく、長所を伸ばすことが武士の狙いだった。おそらくセクター3も最終コーナーまでは最速だったと予想されるが、その先はストレートとなるため、タイム的には相殺だろう。だが、最終コーナーの脱出速度は高く保てるだけに、瞬間的な最高速はともかく加速の長い区間で高いストレートスピードを維持でき、これが好タイムに繋がったことは想像に難くない。また、第2戦は500kmレースということもあって、決勝で第3スティントをタイヤ無交換で凌いだことも、3位表彰台の原動力となった。

 

■得意のコースが中止となり、苦しんだ中盤戦

 第3戦オートポリスの前、武士は「いちばん自信のあるコース」と語っていた。だが、熊本地震により、オートポリス戦は中止となる。これが、彼らにとって今季最大の誤算であっただろう。だが、それをただのマイナスにはしなかった。次の第4戦までの間にあったSUGOと鈴鹿での公式テストで、松井をしっかり走り込ませたのだ。松井の著しい成長ぶりを感じ取った武士は、ひとつの決断を下す。「今後のQ2は松井に任せよう」と。
 期待に応え、MCが得意とする第4戦のスポーツランドSUGOで、松井は見事にポールを獲得。あのとき、武士が我が事以上に喜んだのは、そんな背景があったのだ。この松井をレース界で注目させるためにも、決勝の結果に繋げると意気込んだ武士だったが、セーフティカーが入ったことで、せっかくのリードを失ってしっまう。また当初から左側のタイヤ2本交換の予定が、無線の故障で内圧調整を伝えられずに松井と交代。ふたつの不運が重なって、優勝とはならず2位で終わった。
“専任のエンジニアだったら…”。武士が、ドライバーとエンジニアを兼ねる自分に限界を感じたのには、この“失敗”もあったのかもしれない。

 

 

 この第4戦での2位で、ついにランキングトップに立った。だが、続く第5戦富士は苦手コースに加え、66kgというウエイトハンディも影響し、13位と初のノーポイントに終わる。
 第3ドライバーに山下健太を加えた第6戦鈴鹿。富士ほどウエイト感度が高くないこともあり、予選は5位。決勝では一時トップを走行するも、ミッショントラブルでリタイアを喫してしまう。ただ、ランキング上位が中盤に苦戦するのは、ウエイトハンディ制のあるSUPER GTの常だ。上位陣の条件が接近する終盤戦が、本当の力の見せ所になる。

 

■ポール・トゥ・ウインに隠された松井の執念

 

 迎えた第7戦タイ、チャン・インターナショナル・サーキットはMCにとって相性の良いコース。前年もNo.25 VivaC 86 MCは武士がポールポジションを獲得している。今年は、武士も「びっくりするタイム」で好調・松井がポールをゲット。だが、松井は喜びもそこそこに強い口調で語った。「ここまで3回もポールを奪って、まだ一度も勝っていない。何より明日、勝つことが大事なので、しっかり準備をしていきたいと思います」  その言葉の裏には、武士の去就が見え隠れする。翌シーズン、武士はドライバーとしてはSUPER GTの第一線から退くと公言したからだ。
「来年、孝允と(鈴鹿で起用した山下)健太が走って、エンジニアとして成長中の僕が専念したら、ライバルにとって、これほど嫌なチームはないでしょう」
 もちろん、この時点では松井も山下も来年のシートがどうなっているかは分からない。それでも『武士と一緒に走れるのは今年が最後』『自分がエースを任された』と松井が感じたのは、間違いないだろう。

 

 

 そして第7戦の決勝がスタート。前半を担当した武士はタイヤ温存のため3番手まで後退するも、タイヤ無交換作戦が効いて松井はトップに返り咲く。このまま逃げ切るものと思われたが、ゴール直前になってガス欠症状が。そこで武士はリスクを最小限とするべく「ピットに入ろう」と松井に提案。だが彼はこれをきっぱりと拒否した。次善の策として別系統の燃料ポンプを使うと、なんと状況が改善し事なきを得た。松井の勝利への一途な貪欲さが、今季初勝利の原動力になったのは間違いない。

 

 

■最終戦での大きな決断。真のエースがチームを栄冠に導く

 そして迎えた最終決戦、ツインリンクもてぎでの2連戦。ストップ&ゴーのもてぎは、FIA GT3車両に有利とされ、昨年もMC勢は結果を残せてはいない。土曜日に行われた第3戦はウエイトハンディが半減とはいえ、予選は武士が7番手に甘んじ、決勝でも左側のタイヤ2本交換のみに留めるも、ポジションを上げるまでには至らず、結局7位でゴール。
 もてぎ前こそ、ランキングトップで挑むVivaC 86 MCがチャンピオンの本命と言われていた。だが、ラストレースを前に“やはり苦手コースだけに…”とこれまでの優位評価が一気に崩れた。彼らに幸いだったのは、他のランキング上位陣も苦しい結果に終わったこと。これでランキングトップはキープすることができた。

 

 

 タイトル候補はすべてノーハンディとなった日曜日の最終戦。午前の予選でもNo.25 VivaC 86 MCの状況には大きな変化はなく、松井は6位で終える。しかも決勝序盤で武士がポジションをズルズルと下げ、9、10番手での走行が続く。一方、優勝しか逆転タイトルの目がないNo.31 TOYOTA PRIUS apr GTはトップで快走。傍目では、VivaC 86 MCのタイトルは黄色から、赤信号へと変わったかと思われた。
 だが、VivaC 86 MCの低迷には理由があった。前日の2本交換が上手く行かなかっただけに、武士は当初4本交換を予定していた。しかし“勝つこと”を考えると、それでは難しい。急きょグリッド上で無交換を決意した。とは言え、無交換にしても終盤のペースが著しく落ちたら意味がない。そこで、タイヤの消耗を最小限に抑える方法を実行する。武士は「今まで見たこともない(低いタイヤの)内圧」で走り始めた。
 このためタイヤが適正に温まっていない、武士のスティント序盤はコントロールにも苦しむ走りとなったのだ。最低周回数をクリアした16周目、武士はピットイン。次の周にはトップの31号車もピットに入り、こちらも無交換でピットアウト。
 無交換ながら、温度も適正になり摩耗も抑えられたタイヤでの松井のペースは、明らかに31号車より0.4〜1秒速かった。全車がドライバー交代を済ませた残り15周で、松井は2番手に浮上。31号車を抜かずとも、ランキングトップの彼らはチャンピオンを決められたが、松井は何より勝利で、武士に報いたかったのだろう。猛アタックの松井は、34周目にトップを奪い、そのまま逃げ切った。レース後、武士は「孝允の成長ぶりは、僕の想像以上だった」と満足に語った。

 

 

 激闘の最終戦を終え、土屋春雄監督は語る。「松井の急成長もあったけど、やはり大きかったのは武士のクルマ作り。今年になって(MCは)壊れなくなったし、今では誰が乗っても速く走れる、そのくらいバランスは良くなっている。それは武士の(開発)能力だよ。ほんのちょっとのことで、ガラリと変えられるポイントを見つけるのがうまい。それが武士のすごいところだね」
 今も多くの監督やエンジニアから“名人”と慕われる“レースの職人”であり、しかも父親である人物から、そうまで言われたのだから、きっと武士の感慨もひとしおだったに違いない。

 

 

 SUPER GT/JGTCには1996年から参戦し、GT500クラスでも12シーズンを戦ってきた土屋武士。意外にもこのチャンピオンは、彼のドライバー人生で初のタイトルであった。確かにマシンの進化、松井の成長、復活したガレージが真価を発揮した、そんな様々なベクトルが、このタイトルに向かっていった結果であろう。だが、そのベクトルを結合させて引っ張っていったのは、ドライバーそしてエンジニアとしての”土屋武士”であったことは間違いない。

 

 

 

 

 次回は12月15日、GT500総集編第1回「日産GT-Rの戦いを振り返る」をお送りします。

 

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