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10月31日(金)、2025 AUTOBACS SUPER GT第8戦「MOTEGI GT 300km RACE GRAND FINAL」の開催が控えるモビリティリゾートもてぎ(栃木県)で、NISMOが主催する「ラウンドテーブル」がNISMOホスピタリティラウンジにおいて実施された。この場において、10月23日に自身のSNS等でSUPER GTからの“卒業”を発表した松田次生選手が登壇し、25年半という長きに渡りGT500クラスでステアリングを握ってきた戦いを振り返りながら、卒業を決めた経緯やレースでの思い出を言葉にした。

今にも泣き出しそうな曇天の天気となったもてぎ。会場には多くの取材記者が集まった。冒頭、松田選手から挨拶があり、2000年の第5戦(TIサーキット英田:現在の岡山国際サーキット。No.30 綜警 McLarenGTRで参戦)から始まった自身のSUPER GTでのキャリアに触れ、「どうして(SUPER GTを)やめるのかという声もあるが、僕のけじめとして(GT500最多勝となる)25勝という目標を達成できたこともあり、NISMOと話し合いをして卒業する決意に至った」と語り、今シーズン第6戦SUGOで飾った勝利が転機になったと明かし、自分からSUPER GTからの卒業を発表できることを「本当に光栄だと思う」と述べた。
記者による質疑応答において卒業を決めた時期を問われた松田選手は、「まず25勝することを考えて精一杯やっていたので、(卒業することは)全然(頭に)なかった。がむしゃらに、勝つためには何をしたらいいのかということばかりを考えていた」とのこと。だが、25勝を達成したあとは次の目標を立てるにあたって「緊張の糸が切れた」という。そのSUGO戦では、レース最終盤にコンビを組む名取鉄平選手が優勝を決定づけるオーバーテイクを披露。その姿を目の当たりにし、「若い選手が育ってきてどんどん速くなるなかであの走りを見て、ある程度自分自身が土台を作ったが『バトンタッチしてもいいんじゃないか』、『次の26勝を目指すより後進にバトンを渡してもいいんじゃないか』と思うようになった」と心境の変化があったと打ち明けた。

さらに、「KONDO RACING(No.24 リアライズコーポレーション ADVAN Z)とヨコハマタイヤ(のパッケージ)で1勝する、という大きな目標を達成できたので、NISMOに僕の決意として話しをして(卒業を)決めました」と言う松田選手だが、自分のなかでは“まだやれる”という思いも強いという。「レーシングドライバーを卒業するわけじゃないので、まだ負けないという気持ちもあります。ただ、SUPER GTを長年やってきて、すごく神経をすり減らしている。46歳になって、身体もメンタルも20代(の頃と)同じようなトレーニングができるかといえばできない。気持ち的にもプレッシャーに耐えられないというのも正直ある」とベテラン選手ならではの素直な思いも口にした。
「23号車(NISMO)からKONDO RACINGに移籍したとき、長年勝てていなかったチームでまず優勝すること、そしてヨコハマタイヤさんと戦闘力の高いタイヤを作るという強い気持ちがあった。とにかく勝ちたいという気持ちが強かった。つねに勝ちにこだわってやってきたが、ドライビングだけでなく、クルマを作る、タイヤを作るということをつねに考えてやってきたので、それが自分のなかで蓄積されて経験になり、ここまで多くの優勝ができたと思う。ただ速いだけではここまでこれなかったとも思うし、どうやったら勝てるのだろうといつも考えてきたのが良かったのだと思う」とSUPER GTでの挑戦を省みた松田選手だが、今後の予定を問われると「(現在参戦中の)スーパー耐久では自分としてやりたいことが結構ある。また挑戦できるのであれば世界の舞台……ル・マン(24時間)だったりスパやニュルでのレース※にも参戦したいという気持ちもある。チャンスがきたら(それらに挑戦することを)目標として立てられたらいいと思う」とドライバーとしての夢を教えてくれた。
※スパは「スパ・フランコルシャン」、ニュルは「ニュルブルクリンク」の略称で、ル・マンと共に24時間の耐久レースで著名なサーキット。

また、思い出に残るレースを問われた松田選手は、ロニー・クインタレッリさん(昨年引退)と共に手にした2015年のシリーズタイトルを決める一戦を挙げて「(最終戦の)もてぎで2位を獲ったのですが、あれをもう一度やれと言われたらできるかなというくらいのプレッシャーがあった」と振り返り、さらにHonda時代の2004年、当時のツインリンクもてぎ(第5戦)でアンドレ・ロッテラー選手と挙げた優勝(No.32 EPSON NSX/EPSON NAKAJIMA RACING)も忘れることができない一戦として選んだ。

クインタレッリさん(NISMOアドバイザー)も会見に訪れて親友の引退の言葉に耳を傾けた。
会見終了後には肩を組んで記念撮影、明日からのラストレースにエールを贈った。
「25年はあっという間だった。2000年から自分の人生の半分以上においてGT500のレースに関わってきて、よくここまで戦ってきたなという気持ちがある。それを思えば長かったと思うが、一生懸命走っているときは一年が“秒”のように進んでいく。いざ引退を決めたあとにいろんなレースを思い浮かべるなかで『よくここまで来れたな』というのが正直なところ。勝つことと記録にこだわり、最終的にはSUPER GTの最多獲得ポイントも立川(祐路)さんを2.5ポイント上回り、表彰台の回数もトップになることができた。自分のなかで最後は記録(更新)を意識していたが、それが達成できたので自分には『よくやってきた』と言いたい」と、四半世紀を超える挑戦のなかで自身が手にした数多くの記録への思いも口にした。
「メーカー同士の戦いがSUPER GTの魅力。ドライバーにとってもストレスのかかるシリーズだが、勝つチャンスがあるときにしっかりと勝たなければならないというプレッシャーがあるなかで、強いクルマを作ってきた。結果を出さなければならない重圧もあったが、長く(ドライバーとして)起用してもらえたことが嬉しい。いろんな意味で感謝したいと思う」とSUPER GTへの思いを述べた松田選手。

会見の最後には「後進を育てていきたい。大好きなNISSAN/NISMOで2015年以来チャンピオンが獲れていないので、今までの僕の経験を活かしてもらい、お手伝いできれば、と思う。強いNISSAN/NISMOを復活させることができたらという思いはある」と自身が連覇して以来となるNISMOのタイトル奪還に向け、後進の育成にも思いを寄せた。
「今回、もてぎでうまくいけば26勝できるかもしれないですし、リタイアするかもしれないし、(入賞して)ポイントを獲れるかもしれないですが、デビューしたときの初々しい気持ちでもてぎ戦に挑んでいきたいと思う」と言い、もてぎでの最後の一戦をより多くのファンの目に焼き付けてもらいたいとした。前戦のオートポリスではレース中のアクシデントによりチェッカーを受けずに戦いを終えているだけに、最終戦のもてぎでは文字通り“有終の美”を飾るべく、渾身の走りを披露してくれるに違いない。
